とものいえ
[ 住居 ]
ともにつくり
ともに暮らす生活
札幌市と新千歳空港のちょうど真ん中にある、北海道恵庭市。山林が約半分を占める緑と水に恵まれた土地で、夏は梅雨がなく、冬は道内では雪が少ないほうで比較的穏やかな気候ですが、−20度を超えるときもあります。
2012年2月、引越しの絶えない宮大工ならではの生活に区切りをつけて、恵庭に帰郷。いまでは『とものいえ』と呼んでいる、自分たちの家に手を入れて暮らす生活がはじまりました。
2012年2月、引越しの絶えない宮大工ならではの生活に区切りをつけて、恵庭に帰郷。いまでは『とものいえ』と呼んでいる、自分たちの家に手を入れて暮らす生活がはじまりました。
- 場所
- 北海道恵庭市
- 工事の種類
- リノベーション
- 構造
- 木造2階建て
- 建築面積
- 72.4㎡
- 築年数
- 約70年
- 期間
- 2012年5月〜未定
- 設計・施工
- 村上智彦(GEN COMPANY)
- 施工協力
- 村上道子・恵太郎・喜彦、遠藤亜未、白崎実、徳武学、ひろき、進藤壽勝、猪熊梨恵、稲川なつみ、辻田美穂子、常井玄、宮部俊明、三木佐藤アーキ、浪川広行、竹村時弘、市川滋
- 設備工事
- システムライフ、ミズ・ライフ
- 電気工事
- コレカラ工房
- 左官・タイル工事
- 竹村技建
- 畑
- 村上彰・房子
- 材料協力
- 株式会社シンモク、建旺興業株式会社、宮崎組、竹村技建、郷土建設株式会社、システムライフ
- 写真
- 辻田美穂子
歴史と出会う
何はともあれまずは片付けから。約12年誰も住んでいなかったため、親戚中の不要な家具が詰め込まれた状態で、それらを納屋に移動させるところからはじまりました。遡ると、北海道開拓が本格的に行われたのは屯田兵制度創設の翌年、1875(明治8)年から。恵庭の春日地区は同じ頃に入植が始まり、大家さんである澤永家は1948(昭和23)年に入植したという記録が残っています。近所の人の話ではその数年後にはこの家が建っていたそうなので、築70年ほど。材料の大きさや使い方は、現在も使われている柱と梁を組み合わせた在来工法ですが、木の組み方は金物を使わず手で加工した伝統工法。どうやらちょうど端境期の建物のようです。
窓が南側に偏っていて不思議だなあと思っていたら、その分北側の窓を少なくして暖かさを保つためだと気付いたのは、一度冬を越したあとでした。さらに作業を進めていくと、開拓時は柾葺き(まさぶき)屋根(繊維に沿って割った木材の薄板を重ねて貼っていく屋根)だったこともわかりました。郷土資料館で調べたところ、もともと恵庭は林業が盛んで、江戸幕府にエゾヒノキと呼ばれるエゾマツの良材を納めていたとか。現在は北海道の屋根材と言えば鉄板が主流ですが、当時はエゾマツなどを使った木製だったようです。
建物のもつ記憶
北海道では、本州ではまず目にすることのないタモやナラを土台に使っていたり、入植者の故郷である富山や福井の建築様式が見られることがあります。建物にはその土地の素材が使われ、その時代の影響を受け、つくった人の技術や想いが残っている。手を動かしているうちにそうした歴史や文化、誰かの記憶と出会います。もちろん自分で調べたり、ときには近所の人に教えてもらったりしながら。寒冷地ならではの工夫
床に敷いてあった畳は、雨漏りで腐っていたので、取り外しました。畳の下の床組も湿気で腐食が激しかったため解体。それらを支える束石(つかいし)も倒れていたので、凍結深度である地下70センチメートルまで掘って、据え直し。現在のように基礎となる材が全面に敷かれていなかったので、床下からの湿気を防ぐために、納屋にあったビニールハウスのシートを土の上に敷きました。これは北海道で一緒に仕事をした先輩大工さんに教えてもらった工夫です。そして、納屋に眠っていた材料で床組をつくり、断熱材を入れて、合板を貼ったら荒床(あらゆか)の完成です。外の世界を感じる壁
壁は、外に接する壁を内側から解体し、軸組だけにしてから必要な補強をし、断熱材を入れました。もともと真壁(しんかべ)と呼ばれる柱が露出した状態だったので、断熱材を入れて柱をそのまま見せるように石膏ボードを貼り、白く塗装。床と同じく、断熱材を入れたあとにビニールを貼ることで、気密性を担保しました。また、現在の北海道では防寒対策として、二重、三重になった窓ガラスを使用し、さらに建物の外側にも断熱を施すのがほとんどですが、『とものいえ』では三重ガラスや追加の断熱をやめました。そうすると外の世界と完全に切り離されてしまう気がするからです。鳥や虫の声、誰かが訪ねてきた気配、気温の変化など、外とのつながりを感じられないなんて、もったいない。暑さや寒さ、防音対策は大事ですが、何ごともほどほどにいい塩梅を見つけたいと思っています。
変化に寄り添う
現代の家は何でも見えなくしてしまいます。たとえば、水道の配管や電気の配線は壁のなかに隠すことがほとんど。でも、配線を外に出しておくと、コンセントの位置を変えたり、分岐を増やしたくなったときもすぐに対応できます。また、水道管の漏水などトラブルの発見も早く、対処もしやすい。時間が経ってみないとわからないこともあるし、自分たち自身も変わっていく。建物はそうした変化に応じて、人の暮らしに寄り添うものであってほしいと思っています。
ストーリーも一緒にもらう
たとえば「この型番のこれが欲しい」と言っても希望通りのものが手に入ることは稀ですが、こういうものがあったらいいなという願いは持ちつつも期待しないで解体現場に行くと、それに近いものやあとで必要なものがひょいと出てくる。そのときのいる/いらないで判断しないで、まずは話をきく。ものの背景を教えてもらう。そうやって、ぐっとくるストーリーも一緒にもらうからこそ、あとで思い出して使う機会がやってくるのだろうと思います。それから、骨董的な価値よりも「まだ使えるもの」「かわいそうな使われ方をしているもの」「手をかけてつくってあるもの」という機能面も見ています。そうそう、のちに『ARAMAKI』というプロジェクトになる鮭箱も、この時期に出会ったもののひとつでした。
持ちつ持たれつの関係性
これまで、発注間違いで倉庫に眠っていたもの、取り止めになったものや、まだ使えるのに廃棄を待つ材料など、さまざまなものを譲り受けました。特に窓のサッシはいくつももらってきて、サイズの合うものから順に取り付けていきました。キッチンは、工務店の倉庫の奥に眠っていた人工大理石の巨大なキッチンカウンターを切断し、間取りに合わせてL字型に改良。設備屋さんには「配管の仕事を頼むので、まだ使える便器があればください」というお願いの仕方をしました。そうすると処分する手間と費用が省けて、ゴミも減らせますよね。
近江商人の「三方よし」という心得は、売り手と買い手だけでなく、世間もよしとなるような状態がいいという意味を指します。そのためにはこちらの要望だけではなくて、相手がどんな状況なのかを知ることが大切です。そうやって関係性を育んでいくと、互いの困っていることとできることが噛み合ってくる。あとから振り返ってよかったと思うときは、やはりみんなにいいことがあった三方よしの状態だったなと思います。
解体現場で発掘したもの
郵便局の解体現場では、フローリングを見つけました。時間が経つごとに深みが出てくるナラ材で、一枚ずつはめ込んで釘で留める、接着剤を使っていない古い工法のためバールで剥がせちゃう。これはいいぞと、『札幌オオドオリ大学』から有志を募ってフローリングを剥がして貼るワークショップを開催し、まるごとリビングで使うことにしました。ボーリング場の解体現場からは、レーンの一部を回収。なんとか軽トラックで運べるサイズに切断したレーンをそのまま持って帰ってきたことは、いまでも我が家の語り種です。このレーンは、ダイニングテーブルに生まれ変わりました。
フィンランド式サウナをつくる
2018年4月には、パリに暮らす建築家の友人・森弘子さんと一緒に庭にサウナをつくりはじめました。きっかけは、フィンランド留学をしていた森さんの「フィンランドのサウナって、日本で誤解されてるんだよね」という一言から。なんとフィンランドでは国会議事堂や大使館にもサウナがあり、大事な交渉や決断は会議室ではなくサウナで行う文化があるそう。30年ほど前までは出産が行われ、他界したあとは遺体を洗う、この世の入り口と出口を果たしていた重要な場所。そんな話をしてくれたあとに、ヘルシンキと恵庭は気候や風景も似ているし、寒い冬にサウナに入れたら最高だよね! と盛り上がり、実行することになりました。
ともにつくる
僕にとっては遠隔でやりとりする練習に、森さんにとっては、譲り受けた材料を使ってサウナをつくるチャレンジになりました。思い通りにならないことはしばしばで、その都度話し合って解決策を練ります。そんな準備期間を経て、2019年7月に着工。森さんがやってきて、敷地のどこに配置するかを検討し、穴を掘り、束石を据えて軸組までをつくりました。完成は12月頃の予定です。『とものいえ2』では、滞在するゲストにちなんだ料理を囲みながら、トークイベントをひらいています。今回のメニューは、フィンランドの上棟式で食べるというインゲン豆のスープと、パン教室をやっている母のパン、デザートにはコーヒーと家の畑で採れたラズベリージャムを添えたパンヌカック(フィンランド式パンケーキ)。
こうした場をひらく理由のひとつに、自分たちだけでなく、子どもたちに「こんな大人がいるんだ!」ということを見せたいという気持ちがあります。長男・恵太郎の同級生で建築家を目指している女の子にも声をかけたところ、熱心にメモをとっている姿が印象的でした。